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山崎潤一郎

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yamasaki9999@gmail.com
Twitter:@yamasaki9999
血液型
O型
星座
蟹座
好きな音楽
70年代のロック
Little Feat、Jackson Browneあたりを中心にいろいろと聴きます。
でも実は、隠れプログレです。
「宮殿」のジャケット踏めません。でも、ELP「ラブビーチ」なら踏めます。
山崎潤一郎(やまさき・じゅんいちろう)
1957年生まれの蟹座のO型。
音楽制作業に従事する傍ら、IT系のメディアに寄稿するライターとしても活躍。日本に個人向けプロバイダーが登場した時代からインターネットを使いたおしネット系雑誌などで常に最先端の情報を提供してきた。Yahoo Internet Guide、日経コミュニケーション、@IT、西日本新聞などで執筆。さらに、株の取引を初心者向きに解説した「株の買い方・売り方が面白いほど分かる本」(中経出版)を執筆するなど、その守備範囲はネットだけにとどまらない。近著に 『ケータイ料金は半額になる! 』(講談社)、『iPhoneアプリで週末起業』(中経出版)
がある。


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2010年3月

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「これが坐禅(座禅)だ!」シリーズ〜プチ修行のすすめ その4(最終回)

坐禅のワンセッションの時間は約40分。その根拠はお線香が燃え尽きる時間だそうです。昼なを薄暗い衆寮の中に入ると、鼻腔をくすぐるひんやりとした空気が、ザゼンザゼン…といやがおうにも気分を盛り上げてくれます。いや、盛り上がっちゃいかんのです。心を落ち着けましょう。でも始めての時は何が始まるのだろうかとワクワクしたことは事実です。

ただ、いざコトに及ぶとなると、隣人に対し合掌低頭したり、坐蒲(ざふ、坐禅用の座布団)を整えたり、身体の方向は右回りで変えるなど、一回ではとても覚えられない決められた手順を踏む必要があります。担当のお坊さんに指導されながらこれら手順をこなしていくうちに段々と心が落ち着いてくるから不思議です。

当然、坐り方にも形があります。あぐらの姿勢から「結跏趺坐(けっかふざ)」と呼ばれる両足首をももの付け根に引き寄せたヨガのポーズを取ります。このポーズを取ることで坐蒲に乗せたお尻と両膝の三点で身体を支えることになり安定した形で坐ることができるのです。

実は、身体の堅さででは誰にも負けない私の場合、この結跏趺坐ができません。無理すればなんとかなりますが、この姿勢を40分間はつらいものがあります。私にとってはそれだけで難行苦行です。でもご安心めされ。そんな人のために「半跏趺坐(はんかふざ)」という片足だけをももに乗せる坐り方も許されています。これなら楽です。

いや中には、半跏趺坐すらできないよ、という人もいるかと思います。そんな場合は正座でもオッケーなんです。ただし、普通に正座するとしびれや痛みでとても40分は持ちません。そこでお尻の下に坐蒲を挟んで足に負担がかからないような体勢で坐ることが許されています。

それにしても大いにホッとする話でではありませんか。「結跏趺坐ができなきゃ坐禅をする資格無なし!」てな感じで切り捨てられることなく三段階で坐る人の都合に合わせたルールがあるのですから。仏教ってのはこういうフレキシブルなところがあるので良いですね。

さて、足を組んだら坐禅の姿勢を決めます。なにせ40分間同じ姿勢でいるわけですから、畳へのお尻や膝の当たり具合など、諸々の位置決めが大切です。不十分な体勢で始めたばかりに後からモゾモゾするのもなんだかばつが悪いですし。

まず背筋をピンと伸ばして時計の振り子のように左右にゆっくりと身体を振ります。揺れをだんだんと小さくしていき上体が最も安定したところで止めます。これを前後でも行います。と、書くのは簡単ですが、始めのうちは要領を得ません。こればっかりは経験を積んでベストポジションを見つけるしかないでしょう。

足の組み方と同様、手の形にもルールがあります。仏像の手を見るといろいろな形をしています。これらの“サイン”には全て意味があり、名前があります。坐禅は、いくつかあるサインの中から「法界定印(ほっかいじょういん)」という形で行います。

右の手のひらを下にして左右の指先を第2間接のあたりで重ねます。そして両方の親指を軽く接触させ卵形の輪を作ります。これをへその下あたりに置いてください。そして形の力を抜いて背筋を伸ばしましょう。ちなみに、坐禅中は目を閉じません。閉じていると寝ちゃいます。警策で打たれちゃいます。自然に開いて前方1メートルくらいのところに視線を落とします。

これで、お釈迦様が簿大樹の下で〈真理に目覚めた〉ときと同じポーズになりました。中身は無理でも形だけはお釈迦様と同じです。

銅鑼のようなものが叩かれたのを合図にいよいよ坐禅本番へ突入です。実は、スタートとともに参加者全員にお坊さんが警策を入れて回ります。始めての時はそれはドキドキします。順番が近づくにつれ、痛いのかなあ〜とか、ねらいがそれて頭を叩かれたらどうしようとか、余計なことを考えます。

小学校の時、ツベルクリン注射の順番を待つあの気分です。でも、大丈夫。冒頭にも書きましたが、痛くはありませんし、これから40分間しっかりと坐ろうという自分自身への励ましにもなります。打たれる順番が来るとお坊さんが右肩に警策を当てて合図をするので、合掌をして頭を左に傾けます。打たれ終わったら頭をまっすぐにして合掌低頭しましょう。打たれる回数は1〜2回です。ちなみに、この例は曹洞宗ですが、臨済宗の場合は左手を右肩に置き、右手は下について左肩で警策を受けます。

さあ、坐禅の真っ最中です。どういう心持ちでいればいいのでしょうか。よく“無の境地”などという言い方をしますが、プチ修行者がいきなり無になれるわけがありません。というか“無の境地”がとんなものかもわかりません。それに、寝ているわけではないので、いろいろな想いが頭の中で交錯します。いろいろな雑音 --- お堂の外の車の音や人の話し声 --- も耳に入ってきます。でも、お坊さんは「そのままにしておきなさい。けっして追いかけるな」と言います。

様々な思いが頭に浮かぶのは仕方ない、雑音が耳から入ってくるのも仕方ない、それらを無理に断絶する必要はない(そもそも無理)。ただ、浮かぶがまま、聞こえるがまま、とにかくそのままにしておけ、というのです。ふーん、なるほどと頭で納得するのは簡単ですが、どう実践すればいいのか皆目見当がつきません。

私の場合、頭に思い浮かんだ事を深く考えてはいかんと否定するのに賢明でした。ただ、いくら否定してもそれを消し去ることはできません。それに関連したことや新たな思いが次々と浮かんで来ます。それでも、否定します。始めての時は、そんな事を繰り返しているうちにアッという間に40分間が過ぎてしました。えっ、もう終わり?と思ったほどです。

ただ、坐禅中の心の置き場所は個々の問題なので人から教わるのは難しそうです。経験を積むことで、自分なりの答えを見つけるしかないのでしょう。

總持寺の参禅会の場合、前半と後半の2セッション(各40分)に分けて坐ります。前半が終了したら、お坊さんの法話を聞いたり般若心経を唱えたりと、これまた得難い体験をして、後半のセッションに突入します。2度目は、ちょっとだけ勝手がわかるのでリラックスして坐ることができました。その分気持ちに余裕ができたのか、頭に浮かんだことを否定し続けることもなく、目の前の壁についたシミをじーっと見つながら、いろいろな思いが浮かんでは消えを幾度となく繰り返すうちに、はやりアッという間に40分間が過ぎてしまいました。

後半終了後は、「作務」と呼ばれる清掃作業を行います。参禅会で利用するエリアを行なうので、それなりに広い範囲になりますが、大勢でいっきに行うので時間にしたら15分程度で終了します。

これで坐禅体験の一部始終は終わりです。熱心な参加者は毎週のように坐りに来ている人もいるようですが、そこまでヘビーに気合いを入れるとプチ修行の域を脱してしまう気もします。

私の得た感覚では月に1度程度参加するだけでも、十分“その気”になれ、日常生活の中のある瞬間、瞬間で「オレはザゼンしているのだぞ」という気持ちのハリのようなものが出来ると思います。さあ、みなさんも、難しいことは忘れてとくなく坐っちゃいましょう。レッツ・ゴー・ザゼン!です。

坐禅シリーズは終了です。
Photo by tv

「坐禅(座禅)体験実況中継」シリーズ〜プチ修行のすすめ その3

坐禅を体験するには、禅宗のお寺に行きます。禅宗とは、修行の中心に坐禅を置いたり、坐禅により、道を求める宗派のことで、臨済宗・曹洞宗・黄檗宗の3つを指します。実は、坐るときの考え方や手順の部分で宗派により多少の違いがあります。

私が参加したのは、横浜市鶴見区にある、曹洞宗の大本山總持寺が毎週日曜日の午後1時から4時まで行なっている「日曜参禅会」と呼ばれる坐禅会です。したがって、ここで紹介した決まり事や手順は、特別な断り書きがない限り曹洞宗の方式に則ったものと思ってください。

参禅会の参加費は一回200円で、初回のみ別途700円の加入費用(会の会員となる形式)がかかります。ただ、会員になるといっても、規則や強制力のあるものではなく、“毎週日曜に坐禅を行なっているので参加できる人はどうぞ”といった感じのシバリのない緩やかな集まりです。参加に関して予約等はいっさい不要で、当日の朝起きて「そうだ坐禅、行こう」と思い立ったら参加するといった感じも全然オッケーなのです。

總持寺に限らず、このような坐禅会を行っているお寺は全国にたくさんあります。ネットで調べるとわかります。私の場合は、坐禅→曹洞宗→總持寺という曖昧な知識だけで、自宅から車で30分ほどの所にある總持寺にふらっと行って「参禅会」の案内をもらってきました。そして次の日曜日には参加していました。

總持寺の場合、このような日曜参禅会の他に、土曜日の午前9時から翌日曜日の午後4時まで参加する一泊の参禅会も開かれています。もうちょっとヘビーに坐禅を体験してみたいという人にはいいかもしれません。

また、いやいやそんなもんでは、まだまだアマイわい、という人には、年一回ですが、4泊5日の長期参禅会も開かれています。こうなると坐禅会というより修行です。いずれにしても、まずは最寄りの寺院に問い合わせてみましょう。

さて、実際に坐禅会に参加するとどんな事をするのでしょうか。ここでは私が参加している曹洞宗大本山總持寺の「参禅会」を例にその内容を報告します。

参禅会の集合は午後1時ですが、初心者はそれよりも30分早い12時30分に集合します。会が終わるまではお寺の中で過ごすわけなので、お寺内での作法について簡単な説明を受けます。説明をしてくれるのはボランティアのベテラン会員、つまり私たちと同じ坐禅会の参加者の人です。ただ、作法と言ってもカタク考える必要はありません。昔、学校で「廊下は走るな」と教えられたと思いますが、その程度の難易度です。

次にここで靴下を脱ぐよう言われます。お寺の中は素足が基本です。そして、全員で一列になって「衆寮」と呼ばれる坐るためのお堂に移動するのですが、お寺の中を歩くときは、両手で「又手」と呼ばれる形を作り歩かなければなりません。

これは衣を着たお坊さんが手を下にブラリと下げて歩くと袖がヒラヒラしてだらしないことから、お寺の中で歩くときのルールとして決められています。参加者は衣を着ているわけではありませんが、このルールに従います。

坐禅をする時のファッションについても触れておかなければなりません。總持寺の案内書には「目立たない坐りやすいものを着用」とあります。私の場合、上はスエットやシャツ、下はユニクロのイージーパンツという極めてラフな恰好で参加しました。

作務衣(藍染めのコットン製のお坊さんの作業着)で参加している年輩の方も多くおられました。更衣室が用意されているので、皆さんそこで着替えているようです。それと、腕時計、ピアスの類は外します。

衆寮への移動は、一文字廊下と呼ばれる長さ152メートルの長い廊下を通ります。この際、左側通行と決められています。ぴかぴかに磨き上げられホコリひとつ落ちていない廊下をサッサッサッと歩くにつれ気分も盛り上がって来るというものです。バタンバタンなどとだらしない歩き方は間違ってもできない雰囲気なので、自然とお行儀の良い姿勢で歩いている自分に気付きます。

それと、歩く際にもうひとつ大切なルールがあります。お坊さんや他の参加者とすれ違う時は「合掌低頭」(手を合わせてお辞儀をする)しなければなりません。最初はちょっとばかり照れくさい感じもしますが、2,3度やるうちに気分はすっかり修行僧です。「今のは頭の下げが足りなかったので次はカッコよく決めてやろう」などと余裕も出てきます。

あと、合掌低頭するのは人間が相手の時ばかりではありません。仏様の類(乱暴な言い方ですみません)の前を通過する時も一端立ち止まり正面を向いて合掌低頭します。

始めのうちは頭を下げた相手の仏様がどんな人(?)なのかわかりませんが、ベテランに質問するなり自分で調べるなりして知っておくとより充実した時間を過ごせるというものです。まあ、全部は無理にしてもせめて「佛殿」(禅宗のお寺では本殿とは言わない)のご本尊様の名前くらいは覚えておきましょう。ちなみに總持寺では、禅宗のご本尊さまである「釈迦牟尼如来」が祀られています。

さあ、いよいよ坐禅の開始です。次回に続きます。

Photo by Clearly Ambiguous

【訂正情報】
参禅会の初回費用を500円から700円に訂正しました。

坐禅って何?「坐禅(座禅)を体験する」シリーズ その2

横浜市鶴見の總持寺という曹洞宗の本山で坐禅を体験してきました。

第2回 「そもそも坐禅って何だろうか?」



高名な仏教学者の渡辺照宏先生は、彼の著書日本の仏教(岩波新書刊)の中で、坐禅の起源となるインドのヨーガ(yoga)について、その実践法を次のように記しています。


--- 落ち着いた姿勢で、呼吸を統制し、精神を統一して、高度の認識を完成することを目ざすものであって、瞑想であり、静観であり、神秘直感である。これによって精神力を高めると同時に、肉体力をも増し、奇蹟をも行なうことができるものとさえ信ぜられている。---


いやあ、市井の一市民であり、凡人たる私には、「落ち着いた姿勢で、呼吸を統制し」以降は何のことかさっぱりわかりませんが、インド仏教の修行者達は、“座る”ことで、「高度の認識を完成」、つまり真理に到達し、宗教的な理想を完成させることを目ざしていたようです。


実は、お釈迦様も死に直面するような苦行の後、菩提樹の下で坐禅して仏陀(真理に目覚めた人)となりました。そのとき彼が何を想い何を考えたのかはわかりませんが、座って瞑想している間に何らかの体験するするなり、自覚をするなりして〈真理に目覚めた〉ことは確かなようです。


ただ、こういう話は知識として知っておいて損はないですが、プチ修行者たる我々が実践しようなどとは夢にも思わないほうがいいかもしれません。家庭も財産も仕事も全てなげうってでも真理を追究したい!というのであれば別ですが。


では、この現代において、お寺に坐禅をしに行く人々は何を求めているのでしょうか。例えば、私が参加した曹洞宗大本山總持寺の参禅会(一般の人も坐禅をしようとお寺を開放している会)では、毎週日曜日数十名の人々が自らの意志で坐りにきます。


初参加の日、私以外に初心者は3名いました。隣にいた東京都大田区から来た米屋のご主人は「物事にこだわり過ぎる性格をなんとかしたいので、坐禅をすることで自己を見つめ直す」といった主旨の抱負を述べておられました。他の2名の方々も、理由こそ違えど動機の本質は「自分を見つめたい」といったものでした。


〈座ることで自分を見つめる〉確かに壁に向かって座るその姿を端から見れば、坐禅に抱くイメージとしてそれは大いに理解できますし、経験を重ねるうちにそれもで可能なのかもしれません。ただ、私は、はじめからそこまで肩に力を入れなくてもいいのでは、と思うのです。


私が坐禅をしにいった動機は、どんなものか「一度経験してみたい」程度の軽いノリでした。こんな言い方をすると坐禅にまじめに取り組んでいる人に叱られそうですが、曹洞宗の開祖「道元」は、「さとりも意義も求めずただひたすら無条件に坐れ」と説いているので、こういった動機でもまあ怒られることはないかなと思っています。で、坐禅初体験を終えた時「時間が許せば、また参加したい」と思いました。つまり坐禅って結構良いものだったのです。


じゃあ、何がそう思わせたのでしょうか。それを一言で表すと“爽快感&充実感”です。始めての坐禅を終えて帰路につくときの軽やかな気分は、何にも例えようがありませんでした。強いて言うならば、18歳の時、生まれて初めてのバイト(早朝から夜まで1ヶ月間休みなしのキツイものだった)を終え、給料を握りしめて帰路についた時のあの感じを思い出します。


もちろん、いくらなんでも、2度目3度目の坐禅帰路で、毎回“バイト帰路的”な気持ちでいたわけではありませんが、爽快感と充実感は毎回のように味わうことができました。お寺にいる間は、緩やかで心地よい緊張感を保ちつつ非日常的な時間と空間の中に身を投じているわけです。


そして、坐禅をやり終えてそこから解き放たれた時、丘を越えた瞬間に目の前にパアッと青く輝く海が開けたような気分、とでも言いましょうか、とにかくそんな気持ちになれるのです。そして、いつもの日常へと帰っていくわけですが、もう一度ここへ戻ってきたい、と思いました。


坐禅そのものに何かを求めるのではなく、その後の心地よさを味わうために参加しているようなものですが、まあ、それはそれでいいじゃあないですか。これを続けていくうちに真理に目覚めないとも限りません。


次回は、実況中継風に坐禅の体験記に突入します。お楽しみに。


Photo by debs

「坐禅(座禅)を体験する」シリーズ〜プチ修行のすすめ その1 

実は、何を思ったか、横浜市鶴見の總持寺という曹洞宗の本山で坐禅を体験してきました。なかなか得難い経験だったので、何回かに分けてそのときの体験記を綴りたいと思います。みなさんも、プチ修行を体験してみては?

連載第1回 「お坊さんに肩をバシッと叩かれた!」

「坐禅」と聞いてまず頭に浮かぶのが、お坊さんに肩をバシッと叩かれるあの場面です。実際、私もバシッとやられました。でも、全然痛くない。むしろとっても気持ちイイ。

といっても僕に“その気”があるわけじゃあありません。なんというか、身体の中にスジが一本ビシッと通る感じがします。だから、自分から進んで警策(きょうさく)を受ける人もいます。

あっ、言い忘れました。お坊さんが肩をバシッとやるあの棒のことを警策といいます。で、警策で肩を叩くことを「警策を入れる」、叩かれることを「警策を受ける」とか「打たれる」といいます。

実は始めての坐禅の時、打たれることは不名誉な事だと思ってました。だから、坐禅中お坊さんが接近してくると --- 壁に向かって坐っているので、影でわかる --- 「オイオイ、こっちくんじゃネーよ、たのむよ。何ごともなく通り過ぎてくれイ」などと心の中で叫んでました。で、後ろをスーッと通過するとほっとしたりして。でも、それって根本的に違うんですね。

まず、警策は罰ではありません。まあ、叱咤激励(愛のムチってやつですか)のようなものです。打たれたから悪い、打たれなかったから良い、などというものではないのです。それに坐禅中にお坊さんの動向を気にしているようではまさに“修行が足りん”というやつです。

じゃあ、坐禅の最中は何を思い、何を考えればいいの?という話になると思いますが、このあたりのことは後ほど解説するとして、そもそも坐禅って何だろうか?という部分から話を進めるとしましょう。--- つづく ---

photo by zenjohn