「これが坐禅(座禅)だ!」シリーズ〜プチ修行のすすめ その4(最終回)
坐禅のワンセッションの時間は約40分。その根拠はお線香が燃え尽きる時間だそうです。昼なを薄暗い衆寮の中に入ると、鼻腔をくすぐるひんやりとした空気が、ザゼンザゼン…といやがおうにも気分を盛り上げてくれます。いや、盛り上がっちゃいかんのです。心を落ち着けましょう。でも始めての時は何が始まるのだろうかとワクワクしたことは事実です。ただ、いざコトに及ぶとなると、隣人に対し合掌低頭したり、坐蒲(ざふ、坐禅用の座布団)を整えたり、身体の方向は右回りで変えるなど、一回ではとても覚えられない決められた手順を踏む必要があります。担当のお坊さんに指導されながらこれら手順をこなしていくうちに段々と心が落ち着いてくるから不思議です。
当然、坐り方にも形があります。あぐらの姿勢から「結跏趺坐(けっかふざ)」と呼ばれる両足首をももの付け根に引き寄せたヨガのポーズを取ります。このポーズを取ることで坐蒲に乗せたお尻と両膝の三点で身体を支えることになり安定した形で坐ることができるのです。
実は、身体の堅さででは誰にも負けない私の場合、この結跏趺坐ができません。無理すればなんとかなりますが、この姿勢を40分間はつらいものがあります。私にとってはそれだけで難行苦行です。でもご安心めされ。そんな人のために「半跏趺坐(はんかふざ)」という片足だけをももに乗せる坐り方も許されています。これなら楽です。
いや中には、半跏趺坐すらできないよ、という人もいるかと思います。そんな場合は正座でもオッケーなんです。ただし、普通に正座するとしびれや痛みでとても40分は持ちません。そこでお尻の下に坐蒲を挟んで足に負担がかからないような体勢で坐ることが許されています。
それにしても大いにホッとする話でではありませんか。「結跏趺坐ができなきゃ坐禅をする資格無なし!」てな感じで切り捨てられることなく三段階で坐る人の都合に合わせたルールがあるのですから。仏教ってのはこういうフレキシブルなところがあるので良いですね。
さて、足を組んだら坐禅の姿勢を決めます。なにせ40分間同じ姿勢でいるわけですから、畳へのお尻や膝の当たり具合など、諸々の位置決めが大切です。不十分な体勢で始めたばかりに後からモゾモゾするのもなんだかばつが悪いですし。
まず背筋をピンと伸ばして時計の振り子のように左右にゆっくりと身体を振ります。揺れをだんだんと小さくしていき上体が最も安定したところで止めます。これを前後でも行います。と、書くのは簡単ですが、始めのうちは要領を得ません。こればっかりは経験を積んでベストポジションを見つけるしかないでしょう。
足の組み方と同様、手の形にもルールがあります。仏像の手を見るといろいろな形をしています。これらの“サイン”には全て意味があり、名前があります。坐禅は、いくつかあるサインの中から「法界定印(ほっかいじょういん)」という形で行います。
右の手のひらを下にして左右の指先を第2間接のあたりで重ねます。そして両方の親指を軽く接触させ卵形の輪を作ります。これをへその下あたりに置いてください。そして形の力を抜いて背筋を伸ばしましょう。ちなみに、坐禅中は目を閉じません。閉じていると寝ちゃいます。警策で打たれちゃいます。自然に開いて前方1メートルくらいのところに視線を落とします。
これで、お釈迦様が簿大樹の下で〈真理に目覚めた〉ときと同じポーズになりました。中身は無理でも形だけはお釈迦様と同じです。
銅鑼のようなものが叩かれたのを合図にいよいよ坐禅本番へ突入です。実は、スタートとともに参加者全員にお坊さんが警策を入れて回ります。始めての時はそれはドキドキします。順番が近づくにつれ、痛いのかなあ〜とか、ねらいがそれて頭を叩かれたらどうしようとか、余計なことを考えます。
小学校の時、ツベルクリン注射の順番を待つあの気分です。でも、大丈夫。冒頭にも書きましたが、痛くはありませんし、これから40分間しっかりと坐ろうという自分自身への励ましにもなります。打たれる順番が来るとお坊さんが右肩に警策を当てて合図をするので、合掌をして頭を左に傾けます。打たれ終わったら頭をまっすぐにして合掌低頭しましょう。打たれる回数は1〜2回です。ちなみに、この例は曹洞宗ですが、臨済宗の場合は左手を右肩に置き、右手は下について左肩で警策を受けます。
さあ、坐禅の真っ最中です。どういう心持ちでいればいいのでしょうか。よく“無の境地”などという言い方をしますが、プチ修行者がいきなり無になれるわけがありません。というか“無の境地”がとんなものかもわかりません。それに、寝ているわけではないので、いろいろな想いが頭の中で交錯します。いろいろな雑音 --- お堂の外の車の音や人の話し声 --- も耳に入ってきます。でも、お坊さんは「そのままにしておきなさい。けっして追いかけるな」と言います。
様々な思いが頭に浮かぶのは仕方ない、雑音が耳から入ってくるのも仕方ない、それらを無理に断絶する必要はない(そもそも無理)。ただ、浮かぶがまま、聞こえるがまま、とにかくそのままにしておけ、というのです。ふーん、なるほどと頭で納得するのは簡単ですが、どう実践すればいいのか皆目見当がつきません。
私の場合、頭に思い浮かんだ事を深く考えてはいかんと否定するのに賢明でした。ただ、いくら否定してもそれを消し去ることはできません。それに関連したことや新たな思いが次々と浮かんで来ます。それでも、否定します。始めての時は、そんな事を繰り返しているうちにアッという間に40分間が過ぎてしました。えっ、もう終わり?と思ったほどです。
ただ、坐禅中の心の置き場所は個々の問題なので人から教わるのは難しそうです。経験を積むことで、自分なりの答えを見つけるしかないのでしょう。
總持寺の参禅会の場合、前半と後半の2セッション(各40分)に分けて坐ります。前半が終了したら、お坊さんの法話を聞いたり般若心経を唱えたりと、これまた得難い体験をして、後半のセッションに突入します。2度目は、ちょっとだけ勝手がわかるのでリラックスして坐ることができました。その分気持ちに余裕ができたのか、頭に浮かんだことを否定し続けることもなく、目の前の壁についたシミをじーっと見つながら、いろいろな思いが浮かんでは消えを幾度となく繰り返すうちに、はやりアッという間に40分間が過ぎてしまいました。
後半終了後は、「作務」と呼ばれる清掃作業を行います。参禅会で利用するエリアを行なうので、それなりに広い範囲になりますが、大勢でいっきに行うので時間にしたら15分程度で終了します。
これで坐禅体験の一部始終は終わりです。熱心な参加者は毎週のように坐りに来ている人もいるようですが、そこまでヘビーに気合いを入れるとプチ修行の域を脱してしまう気もします。
私の得た感覚では月に1度程度参加するだけでも、十分“その気”になれ、日常生活の中のある瞬間、瞬間で「オレはザゼンしているのだぞ」という気持ちのハリのようなものが出来ると思います。さあ、みなさんも、難しいことは忘れてとくなく坐っちゃいましょう。レッツ・ゴー・ザゼン!です。
坐禅シリーズは終了です。
Photo by tv

坐禅を体験するには、禅宗のお寺に行きます。禅宗とは、修行の中心に坐禅を置いたり、坐禅により、道を求める宗派のことで、臨済宗・曹洞宗・黄檗宗の3つを指します。実は、坐るときの考え方や手順の部分で宗派により多少の違いがあります。


最近のコメント